ゲズンドブルネンの泉に関する最初の記述があるのは1748 年のことである。ドイツ語で、ゲスンドは健康な、ブルネンは泉という意味であり、ゲズンドブルネンは健康な泉という意味合いである。
1751 年には近所で薬局を営んでいたウィリアム・ベームが、この泉の水質調査を化学者アンドレアス・ジギスムント・マルグラーフに依頼し、鉄分を多く含む温泉としての効能が認められた。ほかの温泉保養地と比べても塩分・鉄分が高く、フリードリヒ2世にもその価値は認められ、井戸と保養地にふさわしい施設の建設が1758年より進められた。そのためこの温泉保養地は「フリードリヒ=ゲズントブルネン」と呼ばれた。慢性疾病やリューマチ、そして目の痛みに効くと言われ、毎年相当な数の訪問者で賑わった。ただベームが1780 年に死去してからは売却されることになった。
1808 年には医者で薬剤師のクリスティアン・ゴットフリード・フリットナーが、この鉱泉の湧き出る井戸を購入。周囲には英国風庭園を建設。1809年からは当時の王妃にちなみルイーゼンバードと名前を改めた。その後、所有者が幾度も変わったが、いずれもかつての賑わいを取り戻すことはできなかった。
1874 年には実業家のエルンスト・グスタフ・オショリンスキがこの地域を買い取り、名前をマリーエンバードと改め、レストラン、カフェ、ビアガーデンが複合した施設を建て始めた。
1876 年には大工の棟梁であるカール・ガルシュキが鉱泉の湧き出る井戸の上に、自宅を建て、地下から組み上げられた鉱泉を販売することに。鉱泉は瓶に詰められベルリン及びドイツ全土へと発送された。
1885 年にカールはマリーエンバードを買い取り、弟のエミールはこの地に新たに家を建て、新古典主義の装いの喫茶店やダンスホールを開いた。この頃から、バード通り周辺には、ビアガーデンや飲み屋、賭博場や娼館などが集まるようになった。
ゲズンドブルネン地区が都市として拡張を遂げる中、1891 年、バード通りの下水道工事中に誤ってドリルで井戸に穴が開けられてしまい、この鉱泉はそれ以降、二度と使えなくなってしまった。
その後、劇場や音楽喫茶、映画館がマリーエンバード周辺には建てられたが、1945年、第二次世界大戦中の連合軍による爆撃を受け一部を残してほぼ完全になくなる。
現在、バード通り38/39 の建物の上部には、“In fonte salus(この泉に治癒あり)”というレリーフが飾られている。
バード通り38/39、ベルリン
ゲズンドブルネンへとつながるブルネン通り9に建つTimes Art Center Berlinを含む建築は、建築家のアーノ・ブラントフーバーによる設計によるもので2010年に竣工している。アートセンターの上階に建築事務所とデザイン事務所、そしてその上階が建築家のプライベートの居住空間になっている。Times Art Center Berlin 部分は、2019年まではKOW Galleryとしてあった。90年代のこの土地での建築プロジェクトへの投資の失敗によって、基礎と地下部分を残して工事は中断。長いあいだそのまま放置され、まさに“廃墟”と呼ぶにふさわしいものであったという。ブラントフーバーは2006年にこの廃墟を購入。その時点で10年も売れ残っていたという。現在の建築はブラントフーバーによってその基礎と地下部分の構造を残しつつ発展的に設計されているため、当時の痕跡が確認できる。作品のメインビジュアルに映る地下に溜まった錆びた水や、そこから伸びる錆びた鉄筋などは廃墟時代の記録写真である。
ブルネン通り9、ベルリン
ベルリンには16 世紀半ばから公開処刑場の記録が確認されている。最初の公開処刑場は現在のオストバンホフのあたり。その後、フリードリヒ3 世の時代に公開処刑場はミッテ地区のオラーニエンブルガー通りとクラウスニック通りが交わる位置に移された。ただ、その目の前にモンビジュー宮殿があり、城に住む支配者から苦情がでたため、当時のベルク通り、現在のゾフィーエン墓地近辺に移った。そして、最後の処刑場となったのが、1753年に移ったガルテン広場。最後の処刑者は、寝ている夫の喉をナイフで掻き切り殺害したことで死刑となったシャルロッテ・ゾフィー・ヘンリエッテ・マイヤー、通称マイヤー未亡人。当時の処刑には首吊り、火あぶり、車裂きの刑など様々な手法が用いられており、車裂きの刑では、車輪のようなものが使われた。マイヤー未亡人はこの車裂きの刑に処せられたと言われている。マイヤー未亡人が処刑されたガルテン広場の近くでは、今も彼女の幽霊が出るという噂がある。のちに広場近くにセバスチャン教会が建てられてからというもの、周囲の風景が変わったことで自分の墓がわからなくなり、夜な夜な彷徨っているという。教会の中に点滅する灯りが目撃されることも。その灯りが、頭に載せた五徳の鉄の輪に灯した火なのかは、あれとして。
ガルテン広場、ベルリン
そのむかし、京都にひとりの女がいた。自分を捨てて若い女を娶った元夫に報いを受けさせるため遠い道のりを毎晩、山あいの貴船神社に詣でていた。神主は女に、火を灯した五徳の鉄の輪を頭に載せ、怒る心を持つなら、望みどおり鬼になると神託を告げる。女が神託通りにしようと言うやいなや、女の様子は変わり、髪が逆立ち、あたりに雷鳴が轟く。女は、恨みを思い知らせてやると言い捨て、雷雨のなか走り去る。いっぽう、女の元夫は連夜の悪夢に悩み、有名な祈祷師、安倍晴明を訪ねる。祈祷師は、先妻の呪いによって夫婦の命は今夜で尽きると見立てる。男の懇願に応じて祈祷師は男の家に祈祷棚を設け、夫婦の身代わりとして帽子や鬘を棚に載せ、呪いを肩代わりさせるため、祈祷を始める。そこへ五徳の脚に火を灯した鉄の輪を頭に被った女が鬼となって現れる。鬼女は恨みを述べながら棚に載せられた夫婦の身代わりの帽子や鬘に襲いかかるが、祈祷師の神力によって鬼女は退けられる。鬼女は時機を待つと言って姿を消した。
能《鉄輪》に登場する女が自分を捨てて若い女を娶った元夫を恨み、毎晩詣でていた神社。神社は、女が住む京都市中心部から北へ外れた鞍馬の山奥にあり、真夜中に通うには大変な距離である。女の恨みがいかほどであるか窺い知れる。現在は縁結びの神社として広く知られている。
京都市左京区鞍馬貴船町
能《鉄輪》に登場する祈祷師、安倍晴明を祀る神社。「魔除け」「厄除け」の神社であり、祀られている安倍晴明は、生前、天皇から貴族、庶民に至るまで、広くその悩みや苦しみを祈祷によって取り払うことで、大きな信頼を得ていたという。神社は、その安倍晴明の屋敷跡に建てられている。
京都市上京区堀川通一条上ル晴明町806
能《鉄輪》に登場する女が住んでいたとされる場所。一説にはその女が身投げをした井戸とも言われている。女を弔うために女が被っていた鉄輪を塚としてここに葬られているとも。かつてはこの井戸の水を相手に飲ませると縁が切れるという縁切りの井戸として知られていた。
京都市下京区堺町通松原下ル鍛冶屋町
ゲニウス・ロキ(genius loci)は、ラテン語で “spirit of the place” の意味であり、元々はローマ神話における「土地の守護霊」を表す用語であり、しばしば「地霊」と訳される。転じて、「歴史的・社会的な蓄積を含めた、その土地に固有の雰囲気」を指す言葉として用いられる。詩人アレクサンダー・ポープ(1688‒ 1744)は、書簡詩 “バーリントン卿への書簡”(1731)を通して、建築や造園に深い関心を持つ友人のリチャード・ボイルに作庭についての助言を与える際に、「ゲニウス・ロキに尋ねよ(Consult the Genius of the Place)」というフレーズを印象的に使用している。
すべてにおいて、その場所のゲニウス・ロキに尋ねよ。
それは水を昇らせるべきか落とすべきかを告げてくれる。
丘が意気揚々と天高くそびえるのを助けるべきか、
谷を掘って丸い劇場にするべきかを教えてくれる。
土地に呼びかけ、森の中の開けた空き地を捕まえ、
楽しげな木々に加わり、木陰から木陰へと移り、
意図したラインを切ったり、方向を変えたりする。